北欧やエコビレッジでの経験を活かし、

多世代の交差点を作りたい【前編】

坂口阿希奈さん

こんにちは、運営委員の杉原です。
本日から、ものづくり村に集まってくる人々に対するインタビュー記事を公開していきます。

昨年6月に「かってば」と「ながや」が完成して、人々が出入りするようになり、「ものづくり村のコミュニティ」というものが少しずつ形成されつつあります。そこで、昨年12月からものづくり村に集まっている人々に対してインタビューをさせていただく企画をスタートいたしました。

この足寄町に、そして、ものづくり村に、どんな人がどんな経緯でやってきて、どんなことを考え、感じながら暮らし、関わっているのか。このインタビュー企画を通して、足寄町やものづくり村の景色を皆さんに伝えることができればと思っております。

さて、初めのインタビューイは、坂口阿希奈さん。

足寄出身で、函館、愛知、東京、デンマークと様々な場所をまわり、2019年に再び足寄に帰ってこられたそうです。現在は、移住支援センターの「びびっどコラボレーション」の職員として移住者支援のお仕事をされています。

阿希奈さんは、第一回ものづくり市の際に、初めてものづくり村にやってきて、それからちょこちょこものづくり村にやってきてくれるようになった方ですが、運営委員たちもまだあまり深く阿希奈さんの考えを伺ったことがなかったので、是非これを機にいろいろ伺ってみようとインタビューのオファーを出しました。

今回のインタビューには、運営委員の杉原、佐野さん、木村さん、森川さんが同席して興味津々に阿希奈さんのお話に耳を傾けました。


2019年に愛知県から地元足寄町にUターン

杉原さて、愛知ではどんな活動をされていたのでしょう??

阿希奈さん前職は愛知県の豊橋にある「いるかビレッジ」というエコビレッジで働いていました。仕事内容は、多世代多文化の事業作りですね。私たちのエコビレッジは、法人の中に株式3つとNPOが1つ入っていて、子ども園や自然学校、デイサービス、親子カフェ、自分たちの畑で作物を作る他、様々なイベントを企画運営していました。
また、多世代多文化の事業づくりとして、子どもから高齢者、障がいをもつ人、外国人も混ざり合い、どうやって一緒に暮らしを作っていくのか、持続可能なかたちを地域や街中で実験していく場でした。その中で経営側として携わらせてもらい、現場や統括、様々な角度の経験を積ませてもらいました。

杉原面白そうな仕事をされていたのですね。足寄で生まれ育ち、そこからどんな経緯でエコビレッジにたどり着いたのでしょう?

阿希奈さん私が足寄にいたのは中学までで、高校からは寮に入って函館で過ごしました。そこから愛知の大学にいきました。ただ、そこでは自分のやりたいことがみつけられなかったので、東京の大学に転入しました。当時は「国際協力がやりたい」と思っていました。
そして、東京の大学では、アジア関係のことや、イスラムのこと、NGO、NPO、国際協力、女性が社会に出ること等について勉強し、日本語教員の資格も取得しました。それから、幼い頃から福祉にも興味があって…というのも、中学生の頃、足寄町でお世話になっていた方に「北欧は福祉に関して先進的な国だから、学んでみたら面白いよ」と聞いていて、大学の後半くらいから「福祉」についても意識するようになりました

杉原中学の時点で北欧の話をされてたなんて、すすんでますよね…。

阿希奈さん障害を持っている家族がいたので、そういう人の集まりが足寄町にあって、それが結構濃い繋がりだったんですけど、その中で「将来何したいの?現場でやりたいの?」なんて気にかけて話してくれた人がいました。その人の言葉を思い出して「私は北欧の福祉を学びたい」って想いがあったなぁと。大学のゼミは「アイデンティティ論」に関するもので、研究内容がわりと自由だったので、世界の幸福度ナンバーワンのデンマークについて調べよう!と始まったのです(当時はブータンではなくデンマークだったそうです)。そこから一層デンマークの教育や福祉に興味を持ち始めて、「むしろあたしがその教育を受けたかった」と思い、実際に教育を受けにデンマークに行く決意をしました。在学中に行きたい気持ちもあったのですが、お金の問題もあったので、一度就職してお金をためることにしたのです。

野望を胸に秘め1回目のUターン

阿希奈さんなんと、地元に戻ってきました。お金を貯めるために、二年間役場で働きました。

杉原以前にも一度Uターンしてたのですね。その時には貯金以外に地元での暮らしの中に、何か目的だったり期待してた事はありましたか?

阿希奈さん一応理由として、足寄にはもう戻ってこないと思っていたので、早く親元を離れたこともあって、自分の意識があるうちに、もう一度親と暮らしておきたいなと思いました。いつか歳を重ねてから親と暮らすよりも、自分の記憶として、「あの時家族と一緒に生活した」というものを残しておきたかったこともあり地元にもどろうと思いました。
それから、3.11があったこと、そして最後に、地元で家族と暮らした方が効率よくお金が貯められると思ったからです。仕事は選ばずに「ある仕事はやる」という思いで、募集があったものに応募して、清掃でもなんでも仕事を探しました。

杉原仕事って選ばなければ、どこに行っても何かしらありますよね。ただ、地方に移住して(あきなさんの場合はUターンですが)仕事はあったにしても、友達事情も重要ですよね。地元に帰ってきた時に幼なじみや気の合う人たちは町に残っていました?

阿希奈さんそもそも私の場合、ほとんど家と仕事の往復で人と会おうとしませんでした。北欧への計画は、一切周りに漏らさず生活していましたね。当時は、周りに話してもきっと伝わらないだろう、と思い込んでしまった部分もありました。高校が函館だからその頃の仲良い子たちも足寄にいなかったし、とにかく引きこもって経費を抑えて、デンマークに行きたい気持ちが強かったので、淡々とお金をためました。
職場でも必要以上のことを会話することはなかったと思いますが、仕事で農業関係の資料をコピーする時に、デンマークの記事があると、自分用にコピーして集めていました。笑 それから2年半かけて、とにかく頑張ってお金をためました。

杉原おぉ…そして…いったんですか??デンマーク。

阿希奈さんはい、行きましたよ、デンマーク。

多世代多種多様な人々が共存する「コミュニティ」へ

杉原すごい意思の強さと、目標達成能力…!なんだかサクセスストーリー感ありますね。中学時代に得たキーワードを大切に温めて大学卒業後に目標を設定、華やかな都市生活から地元足寄に戻ってきて粛々と働いて有言実行、海外へ留学だなんて。デンマークではどんな勉強を??

阿希奈さんデンマークではフォルケハイスコーレという成人の学校に入りました。専攻が社会福祉コースで同じタームに集まったメンバーが、それぞれ興味があることをみんなで話し合って、フィールドワークに出かけました。幼稚園を訪問したり、大学生に話を聞きに行ったり、私は以前からエコビレッジに興味があったので、向こうのエコビレッジを色々見学しました。

杉原エコビレッジに興味をもったきっかけは??

阿希奈さん最初のきっかけは、大学の頃に体調を崩したことでした。薬を購入しようと尋ねた薬局の先生から「根本から原因をみた方がいい」と助言をがあり、漢方をいただいたことがきっかけです。先ずは身体を温めるようにする、など小さな事から始まり、薬に頼らない食生活や、健康である状態など、持続可能なかたちを考え始めました。暮らしの中で使うもの、食べるものなどに対して、「誰がどのような考えや想いで作ったのか、わかるものを選んで暮らしていきたい」、「そういった考えを次の世代とも共有しながら未来につなげていきたい」と思うようになりました。それで、自分で畑を耕して作物をつくって家族に振る舞ったり、そういう暮らしをしたいな、という想いがでてきました。大学で有機農法の授業が必須だったので、「土」や「自然」というキーワードが私の中にあったのだと思います。

また、「持続可能性」「未来につなげる」という言葉を少し掘り下げると、「投票」という仕組みや「応援・支援」といった人々の行動、すなわち、次世代へ続く「意志のある選択」に興味関心があります。

杉原なるほど。そうしてデンマークから戻ってきて「福祉」「エコビレッジ」というキーワードを日本での生活に展開していくわけですね!愛知のエコビレッジに就職して…

阿希奈さんいや、そこからまずは拠点探しに出ました。

杉原はは、ひたすら動き回りますね…。

阿希奈さん同じ志をもった、エコビレッジ的な活動をしている場所を探して、三ヶ月という期間を決め、色んな方に出会いに行きました。

四国まで旅をする予定でしたが、愛知に立寄り友人達に再会する中で、

①在学中には感じれなかった、土地の豊かさに興味を持ったこと
(山も海もあり、食が豊かであること)
1週間の滞在中、電車で席を譲る若い方に3回も遭遇したこと
そもそも愛知という県の名前の「愛を知る」ってどんな県だろう?と思ったこと
その土地のカルチャーに興味を持ったこと、

がキッカケで、もう一度愛知で生活したくなり、就職先を探し始めました。

杉原なるほど。ここでそろそろ…エコビレッジってどんな場所ですか?
エコビレッジっていうと「自給自足」のイメージがありますが、どこまで自給自足すれば?食べ物からエネルギーまで?あと、住居についても自分たちで作ったりするんですか?あとは「パーマカルチャー」「エネルギーをつくるワークショップ」とかやってたり?

阿希奈さん私がいた場所でもパーマカルチャーのワークショップは開催していました。エネルギーは太陽光も使用していましたが、電気も使います。究極のエコを追求してやってはいなかった、という表現でしょうか。関わってくれる人の間口を広げたかったから、エコビレッジに関するコアな人じゃなくてもきてもらえるように、カップ麺食べる人も、どんな人でも関わってもらえたらという雰囲気の場所でした。

杉原パーマカルチャーとカップ麺ってなんか遠い言葉に感じますね 笑

阿希奈さんこれは極端な例えですが、エコに興味がない人も気軽に来れる形を目指していました。スタッフもみんな肩肘張らずにやってて、エコにまったく興味がない人もいましたよ。そういう人も含めて「どうやって共存するか」という形をつくっていました。私自身も「エコビレッジ」っていってるけど、そんなにエネルギーのことに詳しくないし、それよりも自分の心地いい形をそれぞれが実践する方が大切だと気付きました。

杉原なるほど、阿希奈さんは、北欧に渡り「社会福祉」という観点から「エコビレッジ」の「多世代の共存や多種多様のコミュニティ」的な要素に魅力を感じて関わってきたわけですね!だから、エコ技術とかよりも、「人」なんですね。少しずつ阿希奈さんの考え方がわかってきたような気がします…!

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