ワークショップや作品を通して、

アートの敷居を低くしたい【前編】

渡辺彩さん

こんにちは、運営委員の森川です。

ものづくり村に集まってくる人々に対するインタビュー記事として、「坂口さん」「福中さん」「佐野さん」の記事が公開されてきましたが、今回はものづくり村インタビュー第4弾として、「ながや」の初めての住人、渡辺彩さんにお話を伺いました。

江別出身で、足寄に来るまではずっと江別で生活をされていたという渡辺さん。
前半は、そんな渡辺さんの幼少期から学生時代、更にアーティストとして活動することになるまでを中心にお話していただきました。

度重なる入院生活や、アーティストとしての苦悩を経て、渡辺さんがどんなことを考え歩んできたのか、前半と後半の二回に分けて、綴ってみたいと思います。


ルーツは江別に、「和」のものに惹かれていた

今日は、よろしくお願いします。
はじめに、ご出身はどちらでしょうか?

さん生まれも育ちも江別で、足寄に来るまでは30年以上、ずっと江別にいました。

ずっと江別にいらしたんですね。
札幌など、どこか別の場所で暮らしてみようとは思わなかったのですか?

さん高校受験で札幌に行くためには、枠があって行くことができなかったんです。
それに、私は双子なので、親に負担をかけたくなくて、自宅から自転車で通えるところを選びました。
双子の兄とは、幼稚園から高校までずっと一緒だったんです。(笑)
周りの配慮なのか、同じクラスにはならないようになってましたけどね。

双子だと、学年も同じですもんね。
高校のときは、どんなことをして過ごしていたんですか?

さん高校は弓道部に所属していました。
友達と一緒に見学に行って、弓道の際に使う道着が、「和」のとても素敵なものに見えたんです。
本当は美術部に入ろうと思っていたのですが、弓道部なら激しく身体を動かすこともなく、どちらかというと精神統一をしたりするメンタル競技だったので、これなら私にもできるかなと思ってはじめました。

メンタルが問われる競技、なかなか難しそうですね。

さんそうですね、欲を持ったら的に当たらないんです。

杉原さん(取材陣)それはなかなか深いですね。(笑)
私は、今回の滞在で、鹿猟に同行させてもらいましたが、見事に避けられてしまいました。
欲がありすぎたんでしょうね。

さん一回に4本の矢を射るんですが、3本目くらいから欲が出始めて、そうすると4本目は当たらないなんてことがよくあるんです。

的に当たらないなんてことも、よくあるんですか?

さんもちろん、ありますね。
型が大事なので、それを意識しながら、精神的に欲を持たないことが大切な競技でした。
礼儀作法なんかも、教わるんですが、そんな中で感じたのは、自分が「和」のものが好きなんだろうなという感覚でした。

「和」のものが好きという感覚は、いつ頃から感じ始めたんですか?
高校生になってからですか?

さんおそらく、中学校くらいからだったと思います。
教科書についていた、昔のものを紹介する図解を見るのが結構好きでした。
日本刀とか、男の子が好きなものが割と好きでした。
ドレスとかピンクとかそういう女の子が好きなものは、あまり好きではありませんでした。

今、ご自身で描かれている絵画などの作風からすると、想像できないですね。
「和」の要素は置いておいたとして、かなり女性らしい作風ですよね?

さん確かにそうですね。
自分でも、不思議です(笑)

学生時代は、人と関わるのが苦手だった

部活以外は、どんな学生生活を送っていたのでしょうか?

さん人と関わるのが、とても苦手だったんです。

人と話すのが下手で、どうやって関係を築いていいのか、わからなかったんです。
友達ができても、どこか孤独を感じたり、合わせなければいけないという感覚に襲われて、それがとても苦痛だったんです。

それは、いつ頃から感じ始めたんですか?

さん小学校2年生くらいから、ずっとでした。
高校に入って、割と自由でゆったりとした校風だったこともあり、徐々に改善されていったと思います。
今考えると、もう少し自分を出せばよかったんだと思うんですが、その時はそれもできず、とてもつらかったです。
それができていたら、もっと仲の良い友達もできていたかもしれませんが、それができなかったです。

・・・

でも、今思い返してみると、同じ団地の人と、バーベキューをしたりするのは、とても楽しかった思い出があるんです。
それが、足寄のものづくり村に来たいと思ったきっかけの一つでもあるんです。

同じ団地の人達といるときは、孤独を感じたりしていなかったんですか?

さんそういえば、感じていなかったです。
何でなのかは、わからないですけど(笑)

お兄さんとは、どういう感じなんですか?

さん小さい頃は、よく一緒に遊んでいました。
ままごとから、戦隊ごっこになり、子供が乗れる車も取り合いました。
とにかく、遊び相手でしたね。

今でも仲がいいんですか?

さん仲が良かった時期から、空気のような存在に変わっていき、今は離れて暮らしているので、それぞれ価値観なども変わってきました。
あとから聞いた話ですが、兄は調理系の道に進んだのですが、そのきっかけには私も含まれているんだそうです。
私はアトピーを患っていて、その症状がとてもひどくなった時、食事療法なども行っていたため、食べたいもの・好きなものが食べられなかったんです。
それを近くで見ていたので、食の大切さを意識したんだと思います。

漫画家を目指して進学、そこから絵描きへシフトすることに

彩さんご自身は、高校卒業後、どうされていたんですか?

さん私は、漫画家になろうと思って、札幌にあるデザインの専門学校に進学したんです。
絵を描くこととお話を考えることが好きだったので、少し安易ですが漫画専攻のある学校へ進路を決めました。
小学校の頃から、すでに話を作ったりしていたんです。
それでも、周りには絵が上手な人ばかりで、入学してからは劣等感を味わっていました。

専門学校になると、特にそういったことに特化した人が集まってきますからね。
その後、どういった進路に進んでいくことになるんですか?

さん自分で描いた漫画を、出版社に持ち込んだりしていたのですが、そもそも持ち込みをするまでにかなり時間がかかってしまい、更に持ち込むと厳しい意見に晒されて、好きなものを描いているはずなのに、いつの間にか孤独を感じていました。
その後、少しずつ腕が上がって、もう少しで賞に手が届きそうなところまで行けたのですが、なぜかそこで自分の中の漫画制作に対する熱が冷めてしまったんです。
不思議なのは、孤独を感じながらも、絵だけは描いていて、それが今につながるんですよね。

専門学校では、絵に関しての授業なんかもあったんですか?

さん絵に関しては、全く教わっていないんです。
でも、友達に作品を見てもらったら、とても良いと言ってもらえて、更には、「絵を描く方が向いているんじゃない?」っていう意見までもらってしまって。。。

専門学校に入学して、漫画家を目指していたけれども、熱が冷めてしまった時に、友人から「絵を描く方が向いているのでは?」という意見をもらったことで、新たな道が見えてきたんですね。

さんそうですね。
そんな時に祖父から、江別で喫茶やギャラリーなどをしている「ドラマシアターども」さんで、個展をしてみないかという話をされたんです。
私は漫画を描いてきたので、絵の展示をしたこともなければ、芸術系の大学に通っていたわけでもなかったので、一人で個展をする自信がなくて、専門学校のときの友人3人に声を掛けて、グループ展という形でやらせてもらうことにしました。

でも、準備を進めて、いざ個展が始まった初日に、私は「自分ひとりで個展をしたい!」と思ってしまったんです。
結局、群れるのが苦手だったんです。(笑)

結局、そこに立ち返るわけですね。(笑)
もっと早くそのことに気がつけなかったんですか?

さんはじめに話をもらったときは、怖い気持ちが先行してしまっていたんでしょうね。
自分一人で個展をするなんて、恐れ多いって。
でも、準備をしていく中で徐々にそういうことを感じ始めて、結局、個展の初日には、完全に一人でやりたいっていう気持ちになってしまったんです。

それは、何かそう思う出来事があったのですか?

さん出来事というよりは、「自分の作品だけを、うわっと出したい!」って思ってしまったんですよね。
今度は、一人でやりたいって。
その後、一人での個展に向けて制作を始めたのですが、「良いものを描かなければ」というプレッシャーからか、描いても描いても暗い作品ができあがってしまって。。。

さん実はこんなエピソードもあって、江別出身の彫刻家「原田ミドー」さんという方にお世話になっているのですが、その方が笑っている女の子の顔を描いた私の作品を見て「この子笑っているけど笑ってないね」と、私の楽しく描けていない内面をズバリ言い当ててくれたんです。
父からも、「描けないのなら、そんなものやめちまえ!」と言われていたんですが、その時に「絶対嫌だ!やめない!」という言葉が口をついて出たんです。矛盾しているようで、それが本心なんだろうなって、今だから思います。
母からは、「描けないなら、描けない気持ちのまま描けばいい。その気持は、今じゃないと描けないんじゃない?」って言ってもらえて、それからは題材が笑っていないものでも良いんだって、そういうふうに思えたんです。

それからは、詩を書いたり、抽象画を描いたり、再び漫画を描いたりして、それをすべて展示した個展をしてみたら、見に来た人からは、「一人なのにグループ展みたいですね」って言われてました。(笑)
今は、出したいものを出そうって思って、そうしていました。

では、とてもハッピーな気持ちで個展に向けて準備をできたわけではないけれど、そういった産みの苦しみというか、苦しい気持ちも含めた作品を制作して、個展を行ったわけですね。
実際にその個展を行ってみて、いかがでしたか?

さんプロ・アマ問わず、様々な方から感想をいただけて、それがとても嬉しかったことを覚えています。
漫画を描いているときには得られなかった、見てくれた人との距離感の近さを感じることができたことで、「私は絵を描くことをやっていきたいんだ!」って、初めての個展で実感することができました。
私の進む道が定まった、人生のマイルストーンの一つですね。

そこからは、あまり知らなかった展示の方法を人に聞いてみたり、札幌のギャラリーカフェに出入りしたりするようになりました。
少しずつ、自分で道を切り開いていくことができたと思います。

初めてのグループ展から紆余曲折があって、結果としてご自身の進む道が見えたことで、自分自身にも外に出ていくという変化が見られるようになったんですね。

さんそうですね、人と話をするのはとても苦手だったのですが、自分で描いたものについて説明するのは好きだったんです。
それがあったからこそ、いろんな人と話をする機会も持てたし、「もっと自分をさらけ出して良いんだ」と思えるようにもなりました。

絵を描いたことで、自分の人生が開けていくって、素晴らしいことですね。

さんはじめからもっとうまく人と関わることができていたら、絵を描くこともなかったかもしれません。だから、今はこれで良かったのかなと思っています。

度重なる入院、そのたびにやりたくなるのは絵を描くこと

その後は、どのように進んでこられたのでしょうか。

さんその後は、私の絵が使われていたDMを見た札幌のカフェのオーナーから、個展のオファーを頂いて、これまでは江別だけだった活動の範囲が、徐々に広がっていきました。

その頃は、絵を描く以外にも仕事をされていたんですか?

さん専門学校卒業後、蔦屋でバイトをしていました。
少し絵と向き合うことに行き詰まってしまったことがあって、それなら描きたくなるまで離れてみるのも一つかなと思い、バイトや仕事に打ち込んでいた時期もありました。

その後、正社員を目指して花屋さんに転職したのですが、身体を壊してしまって入院することに。。。
入院中に10日ほど絶食しなければならなくて、それが終わって初めてご飯を食べた時に、食のありがたみを改めて実感して、農業に興味を持ったことから、今度は農家さんで仕事をしてみました。

今度は農業ですか!なかなか多彩な職業経験をお持ちですね。
でも、農業って、体力勝負な印象がありますが、入院明けで大丈夫だったのでしょうか?

さん受け入れてくれた農業法人さんも、その部分については心配してくれていたようなのですが、入って一週間で元気になっていくことを実感できて、この仕事は私にあっているなって感じました。
案の定、その仕事は結果的に4〜5年続けることになりました。

ハウスが100棟ほどある大きな所だったのですが、女性だったこともあり、細かい仕事を主に担当していました。
そこの農場では行っていなかったのですが、「有機栽培」や「自然栽培」なんかにも興味があって、周りの農家さんとも話をしたりする機会を持っていました。

時間はかかるのかもしれませんが、着実にご自身の良さを活かせる場所にたどり着いているところが素晴らしいですね。

さんただ、残念ながら、このあともまた、入院することになってしまうんです。。。
今度は腹膜炎になってしまって、またしても仕事をやめることになってしまいました。

大変なことだと思いますが、入院の経験も豊富なんですね。
私は入院したことがないのですが、入院中はどんなことをしたり、どんなことを考えたりしていたんですか?

さんそれが、面白いことに、入院するたびに絵を描きたくなるんです。
だから、入院していつもはじめに母に頼むのが、「スケッチブックと色鉛筆を持ってきて!」だったんです。
おそらく、絵を描くことが、私の根底にある欲求なんでしょうね、不思議と退院したら、良い作品が描けるんです。
入院すると、まっさらになるんでしょうね。(笑)

Reservation 施設のご予約